日本初の近代的大学として誕生
東京23区の中央に位置する文京区は、多くの大学キャンパスが集まるなど日本有数の文教エリアとして知られる。文京区の南、本郷エリアの多くを占める「東京大学」は日本初の近代的な大学として誕生し、以来、文教エリアの中核となっている。
「東京大学」は1877(明治10)年に「東京開成学校」と「東京医学校」が合併して誕生した。本郷エリアはもともと「東京医学校」があった場所で、合併以降、その他の学部も設けられるようになった。現在の「東京大学」の本郷地区キャンパスの地は、江戸時代には、加賀藩上屋敷があった。こうした背景もあり、今でも「東京大学」の本郷キャンパス周辺には歴史の香りが色濃く残る。
弥生式土器が初めて発見された場所
「東京大学」の本郷地区キャンパスの北側には言問通りを挟んで南に工学部、北に農学部が広がる。工学部の北側、言問通り沿いには「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がある。
1884(明治17)年、「東京大学」の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人が、この碑付近の貝塚で赤焼きの壺を発見した。その後の研究でこの壺は従来発見されていた縄文式土器と異なるものと分かり、発見地の地名から弥生式土器と名付けられた。1976(昭和51)年には東京都心部では数少ない弥生時代の貝塚であることから、「弥生二丁目遺跡」として国の史跡にも指定されている。
夏目漱石の名作からその名が定着した「三四郎池」
1615(元和元)年の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家は幕府から現在の「東京大学」の本郷地区キャンパスの一部とその周辺地を与えられた。前田家では将軍の訪問に備えて、この地に前田家上屋敷を整備し、庭園も造営した。
池はその形状から心字池と呼ばれていたが、夏目漱石が小説『三四郎』の舞台としたことから、やがて「三四郎池」と呼ばれるようになった。現在も「三四郎池」は「東京大学」の学生などの憩いの場となっている。
前田斉泰が正室を迎えた際に建てられた「東大赤門」
加賀藩13代藩主前田斉泰は、1827(文政10)年に11代将軍徳川家斉の娘であった溶姫を正室に迎えた。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その妻の居所を御守殿と呼び、表通りからその場所へ出入りする門を御守殿門と呼んでいた。
加賀藩上屋敷でも溶姫を迎えた際に朱塗りの後守殿門が建てられた。この御守殿門は今も残っており、「東大赤門」と呼ばれ親しまれている。「東大赤門」は1931(昭和6)年に国宝に指定、現在は国の重要文化財になっている。
長い歴史を誇る「東京大学」。ここに残る歴史の舞台を訪ねて散策するのも興味深い。
「東京大学」の本郷地区キャンパスに歴史を訪ねる
所在地:東京都文京区